2021年3月11日木曜日

アレから十年が経って

 こんにちは。蓼食う虫も好き好き、てくねちおです。

 今日は2021年の3月11日です。早いものでアレからもう十年が経ってしまいました。アレというのは、平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災のことです。私もいち被災者として、十年前のことを振り返ってみようと思います。



 その日は学校の春休み期間で、私は自室の机に向かってTween(PC向けTwitterクライアント)の画面を眺めていました。午後2時46分だそうですが、大きな地鳴りが長いこと聞こえたと思えば、初期微動がやってきました。ああ、また東北のほうで地震かな、と悠長に構えていた私でしたが(その一週間くらい前に東北地方で大きめの地震があったので)、異変に気が付きます。揺れが収まらないどころか、どんどん強くなっていきました。「や、おっぱいは揺れてないからね(笑)」とツイートする間もなく、パソコンの画面が暗くなります。早速停電してしまいました。それから揺れは収まらず、立っていられないので壁に寄り掛かる始末。少し不安定な机に置いていた、Tweenとは別のCRTディスプレイが床に落下してきました。これが寝ている間でなくてよかった、と思いつつ、揺れが収まるのを待ちます。厭に長い揺れだった記憶がありますが、実際どれくらいの長さ揺れていたのでしょうか。

 揺れが収まると、とりあえず自宅の安全確認ということで、揺れの間けたたましい音を立てて崩れた食器棚や、家の基礎の周りを見渡しました(一人でいたのにそんなことをするなんてずいぶん冷静だったね、と家族の談)。幸い我が家は固い地盤の上に建っていたこともあり、家屋自体に大きな問題はなかったようでした。

 外出していたり仕事に出たりしていた家族が帰るのを待ちます。ライフラインがすべて止まってしまったので、私は内心かなり焦っていました。最寄りの避難所にいつでも避難できるようにと、自分の大事なアイテムをカバンにまとめるなどしていました。家は無事なので、避難する必要は特段なかったのですが。

 同居する家族はそう遠くへは出かけていませんでしたから、しばらくすると皆帰ってきました。電気・ガス・水道は全て止まっていましたので、石油ストーブを居間に移動して、一部屋に集まって暖を取ることに。母は冷蔵庫の冷凍室を常にぎゅうぎゅう詰めにしている人でしたから、ひとまず食料には困りませんでした。


 最初の夜は、たしかひたすらラジオでニュースを聴いていた覚えがあります。そのときは気仙沼市で大きな火災が起きている、というのが話題になっていたでしょうか。携帯電話(というか当時はWILLCOMのWindows端末を使っていた)の充電も限られているし、インターネットにも満足に接続できず(WILLCOMのPHS基地局は携帯電話のそれに比べて規模が小さく、基地局のもつバッテリーも小さいために割と早い段階で回線が使えなくなりました、その後携帯電話に乗り換えた遠因です)。

 翌日12日は土曜日でしたが、飲み水や生活用水がないのも困るので、給水所に向かいました。しかしそれも長蛇の列で、行列に並ぶのが大嫌いな我が家の家族ですから、給水所はあきらめました。大きなバケツを車に乗せて、沢の水を汲みに行った覚えがあります。ですが、あまり使い道がなかったので(どうせそのままでは飲めないし)、無理に水を調達してくる必要も実はなかったのです。

 そのころからでしょうか、不穏なニュースが聞かれるようになりました。福島第一原発で電力喪失が起きているとかなんとか。悪名高い水素爆発が起きたのは、13日のことだったでしょうか。2,3日目になっても我が家の電力は復旧していませんでしたから、そんなニュースを聞くのもラジオが唯一の手段で、全貌がよくわからず、ただ不安に感じていたように思います。

 地震から4日目の夜、電気が復旧しました。その一日前、二日前くらいには、家から見渡せる範囲の地域に電気が来ている様子があったので、今か今かと待ち遠しくしていた覚えがあります。電気が戻る前まで、特に初日の夜は、街明かりが一切ありませんでしたから、夜空の星が美しく感動を覚えました。今考えてみれば、どうしてあの時写真を撮らなかったのだろう、とも思うのですが、そんな余裕はその時の私にはなかったようです。

 水道が復旧したのは地震からちょうど一週間後のことでした。当時のスケジュール帳を見返して知ったのですが、最後まで復旧しなかったのは電気だと勘違いしていたようです。それだけ電気が来るのが待ち遠しかったんですね。


 F1からそれほど遠いわけでもない地域に住んでいた私は、しばらく外出するのを控えようと思っていました(し、家族にもそう勧められました)。ですが、地震から3,4日後には、パソコンの世話をしている知人からヘルプを求められ、風呂にも入れないまま、自転車をこいでそのお宅へ向かって作業をした覚えがあります。

 東日本大震災と言えばF1の事故、となってしまいがちですが、その原因となった津波も大変な爪痕を残していきました。沿岸部の街でお店を営んでいた親戚の家は浸水し、その影響もあってか、体調を崩され廃業をやむなくされました。私の住んでいた街でも、沿岸部では津波の被害を受けたそうなのですが、なぜかはわかりませんが、地震から1か月くらいの間は沿岸部へ足を運ぶことはありませんでした。


 こうして振り返ってみると、震災当時の記憶があまりはっきりしていないことに気が付きます。地震の揺れそのもの、直後の行動などは、今でもはっきり思い出せるのですが、その後1週間とか1か月とかの間の行動や心情がどうもよく思い出せません。気が動転していたのか、生活するので精いっぱいだったのか、何も考えずに過ごしていたからなのか、わかりませんが、まあ、そういうものなのでしょうか。少なくとも、本震からしばらくの間は、余震で揺れるたびに、またあの揺れがくるのではないか、とビクビクしていたような気がします。揺れの大きさの割に、被害があまり大きくなかった地域におりましたので、こんなことを抜かしているようではどなたかに叱られてしまうかもしれません。


 先月13日、福島県沖を震源とした最大震度6強を観測する地震がありました。東北新幹線は1週間ほど運休になっていましたよね。例の地震の余震であるという分析もありましたし、東日本大震災からそろそろ10年、というタイミングでしたから、まさかあの規模の地震がまた……と心配される方も多かったのではないかと思います。

 災害は忘れたころにやってくる、と言いますが、当事者にとっては強く記憶に残るものです。しょっちゅう酷い災害があればいい、なんてことは全く思いませんが、経験してみないと注意のしようがない、という性質もいくらかあります。ひょっとすると、戦争なんかもそうかもしれませんね。

 最近は、COVID-19でまた別のクライシスに直面している私たちですが、災害や伝染病とどう向き合って付き合っていけばよいのか、日ごろからよく意識しておかないと、いざというときに困ってしまうかもしれません。日本は地震大国だ、などとよく言われます。私にしてみれば、よくこんなところに人が一大都市圏を形成したものだな、と感心してしまうところがあります。まったく順応というのはすごいものです。


 よくわからないところに着地してしまいました。つまりネタ切れということです。今回はこの辺で擱筆させていただきましょう。


 私の人生に春はやってくるのか心配な、てくねちおでした。


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