2022年1月10日月曜日

恋愛をする目的ってなんだろう

 こんにちは。新成人のてくねちおです。嘘です。

 いつの間にか年を越していて、新年は成人の日を迎えていました。私の成人式はいつだったっけ、と思い返してみると、殊更に時の流れる速さを感じて、なんとも言えない気持ちが年々強くなってきます。ここでは考えるのをやめておくことにしましょう。

 久々の更新でなんですが、昨晩銭湯で温まりすぎた身体を落ち着けながら考えていたことを書き連ねてみようと思います。とってもとっても私的なことです。



 たまにぼうっとしているときに、あるいは街中ですれ違う人々を目で追うときに、考えたりすることがあります。自分の恋愛について。もう私もそこそこの年齢になったし、これから書くことはまるで恋に恋するティーンエージャーの考えているような事柄であるような気もするし、こんな話をあらためて文章にすることなどは、ほんとうは憚られるのですが(ただ恥ずかしいだけだとも言えるが)、自分の中で腑に落ちることもあったので、書き留めておこうと思ったのでした。


 このくらいの年齢(どのくらい?)になると、学生時代のかつての同級生や付き合いのあった先輩後輩、四方八方から、最近出会った恋人のことだったり、所帯を設けることだったり、そのための準備がどうだとかだったり、同棲はどうせえ、とか、二人目の子どもがどう、とか、家を建てる、とか、そういった類の話が聞こえてきます。人付き合いがそう良くもなく、人望もない私でさえそういう話を聞くのですから、「人生ゲーム」を順調に進めている人たちは、周囲にきっともっとたくさんいるのでしょう。他方、私はと言えば。鳴かず飛ばずの大学院時代をしのぎ(しのいだというよりも逃げてきただけですが)やっとの思いで拾ってくれた会社に入ることができたところまではいいとしましょう。……いや、それでいいんですね。いいのだと思います。

 とはいえ、私だってその「人生ゲーム」というやつを進めていきたいのです。まずはなんでしょうか。たとえば、恋人が欲しい、とか、いずれは伴侶を、とか。多様性がどうとか、前時代的な家庭の制度がどうとか言われる時代になりましたが、いかにも昭和な価値観の一般家庭で育ったにすぎない私としては、やはりその価値観から逸脱するのもどうかと思ってしまうわけです。その「いかにも昭和な価値観」だって、戦後の数十年ででっち上げられたものだ、といわれてしまうとそれもそれなんですが、まあここでは論じないことにして。

 ……建前もほどほどに。あけすけに言ってしまえば、私だって恋愛めいたことをしたい、それだけのことです。先に書いた建前のような気持ちもないわけではないし(できたら実家を安心させたいという気持ちはあるので)、私も人間なのですから、"そういうこと"や"ああいうこと"(どういうことなんでしょうね、うふふ)をしたい気持ちだっておそらく人並みにはあるわけです。では、どうしたらよいか。答えは単純明快で、そういう相手を見つけたらいいのです。

 恋人探し、どうすればうまくいくでしょうか。私には異性の友人がほとんどいないし、仮に知人伝いに人を紹介してもらっても、場合によってはその知人の面を汚しかねません。だからそういうのは避けたほうがいいと思っています。やはり、もっとも現代的な方法の一つとしては、出会いk…じゃなくて、マッチングサービスを利用することなのでしょう(かつての出会い系サイトは犯罪の温床だったりして世間からの目はかなり冷たいものでしたが、マッチングサービスがここまでの市民権を得ているという現状はどういう風の吹き回しなのでしょうか)。それは分かっているつもりなのですが、なかなかどうして、やってみよう、という気持ちになりません。理由としては、見ず知らずの他人に自分を評価されるのが怖いから、とか、自分を売り込むことについて自信がないから、とかいうところがあります。じゃあ、どうしたら……。


 ここで気づいたことがありました。人生の節々で必要とされるであろう知識や技術、能力は、こういう恋人探しのような行為(あるいは、そこから関係を深め、継続していく営み)によって試されたり、鍛えられたりする部分があるのではないか、と思ったのです。もっと言えば、私はそういう能力に欠けるところが大いにあるのではないか、そう思ったのです。事実、こと恋愛に関しては、いい相手が空から降ってこないかな〜、みたいなことを思って過ごしてきたところがありますし、また、事実、思い上がりと高望みが災いして、就職活動にはそれなりに苦しい思いをしました(ほんとうにほんとうに大変だった)。

 ここでは恋人探しと職探しの二つを挙げましたが、少なくともこの両者には、共通するものがあると思います。見ず知らずの相手に自分自身について理解してもらい、相手の求めていることを理解して自分を売り込む、という過程は、それらに限らず、人生(そんなに大きなスケールで語るようなものでもないけれど)のいろいろなところで遭遇するものでしょう。つまり、恋愛を通して獲得できる(できるであろうと期待される)ものは、恋人や伴侶であると同時に、それを得るための対人関係能力なのではないかと思うのです。世間にある、配偶者がいる人間がそれなりに信用できるとされる共通認識(事実、それは正しくないと思うが)は、そのようなところから類推され期待されるものなのではないかと思うのです。


 それからもう一つ。私には飽きっぽい部分があります。仮にあるお相手と関係を結んだところで、その相手とどれだけの期間、良好な関係を維持できるかはわかりません(これには相性もあるので私だけの問題ではないとしても)。私にもある時期恋人がいることがありましたが、交際を始めた初期には相手に強い興味を抱いて接していたものの、ある時期からはそれが薄れて(自分としてはある程度落ち着いたものだと思っていた)いく、という経過がありました。それは一般的によく起きることかもしれませんが、だんだん相手を大切にしなくなっていく、独りよがりになっていく、という経過は、長期的に見て良いものではないでしょう。人間関係のことですから、誰が悪いと断じることはできませんが、あまり良いと言えるお別れのしかたができなかったのは、そういった面から理解できる部分があります。

 自分は何を求めていて、相手は何を求めていて、自分は相手に対して何ができ、相手の行いをどこまで求めどこまで許すか、という、人間関係の構築や維持、発展に必要な基本的なところは、恋愛関係にある相手との付き合いを通して育むことのできる部分が大いにあります。なにも、それは恋愛を通してしか見ることのできないものではなく、交友関係や職場の人間関係を通してもわかることではある(というよりもむしろ、そちらの方が機会としては圧倒的に多いはず)わけですが、人と人との間の距離感覚にはさまざまあり、あくまでもその中の特に近いところが恋愛関係である、という位置付けです。


 恋人がいて、その相手といろいろなことを経験していく、ということももちろん大切なことだし、私はそういうことこそがしたい、と思っているのですが、恋愛という経験でさらに重要なことは、実は、私の求めているそれとは違うのかもしれない、ということがここで気づいたことなのでした。恋愛においては、関係性の薄いところから人間関係を構築し深めていく、という行為がわりあい大事なのであって、そこをすっ飛ばして、お姫さまが空から降ってきて恋に落ちる、なんていうファンタジーを妄想しているようではろくな大人になれないぞ、と、そう思ったのです。


 学生の身分を終え、定職に就いたら何かが変わるだろう、そんなことを思っていたこともありましたし、ひょっとしたら今もそう期待している部分があるのかもしれません。けっきょく、私はなにがしたくて、私はどうありたいのか、そこがわかっていないと、投げ込まれた大海でもがいてどこにも行けない、そんな有り様になってしまうのです。自分がどうしたいかもろくにわかっていないのに、よく知らない相手のことを慮ることなんてどうしてできたものでしょうか?何らかのきっかけから目的地を決めて、そこに向かって泳いでいくことができる人生だとしたら、きっとそれがよいのでしょう。でも、ひょっとしたら、もがくのをやめて、潮の流れにぷかぷかと流されていく、そんな人生もまたよいのかもしれません。

 私はこれから、どこへ向かっていくのでしょうか。


 人間五十年、下天のうちと比べれば、夢幻の如くなり。てくねちおでした。



追記:この記事は、日頃の私の考えを表明しただけなのであって、良い相手を紹介して欲しいとか、そういった目的はありません。お気になさらず。

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