2020年12月16日水曜日

年の瀬に思いを馳せる風情について

 こんにちは。空中分解真っ只中のてくねちおです。


 早いもので今年も12月になりました。12月は師走とも言われます。お坊さんが忙しく駆け回る時期だからそういうふうに呼ばれるのだというのが通説ですが、実は語源はよくわかっていないのだそうです。平安時代の時点で語源を遡れなくなっているそうなので、本当の語源はいつになってもわからないままなのかもしれません。



 年末年始を含む12月から1月の期間は、人々の動きが何かと忙しくなる期間です。日本に住む多くの人の場合は新しい年と年始の休暇に向けた準備に、クリスチャンの方であればクリスマス前後の準備に、12月は忙しくなることでしょう。その他の場合はよくわかりません。なにもお坊さんだけでなく、実にいろいろな人が忙しくなる時期だろうと思います。

 果たして今季の年末年始は、そういったいつも通りの年末年始になるのでしょうか。仕事の上での12月の忙しさはひょっとしたら変わらないかもしれませんが、年末年始の過ごし方はまた異なったものになるのではないかと推察します。もちろん、例のアレの影響です。


 2020年は、例のアレが世界的に大流行したことによって、(コミュニティや職種によるところはあれど)人々の物理的な動き方に大きな変化がもたらされたように感じます。他人と直接会って何かをするという行為が減って、カメラと画面を通してコミュニケーションをとるという機会がある程度増えました。仕事や公的な行為だけでなく、個人的な行為においてもそれが普及したように思います。例えば、事務手続きのように、物理的にどこかに赴いて作業や手続きをするという、今までは煩わしいと感じていたことが、物理的な移動を伴わない形でできるようになったりして、便利になった部分もあります。

 そういった流れの中で、「この行為や行事が、この時期に、このようなやり方で行われることに、必然性はあるのか?」という疑問を持った人が多くおられるのではないかと思います。学校行事であるとか、大型連休の設定の仕方であるとか、対象は多岐にわたると思います。よく考えてみれば、年中行事の多くは、一般的に行われている時期にやらなければならないというわけでもないのかもしれません。

 年末年始にみんなで一斉に休暇を取って、みんなこぞって帰省をする、ということは、(年を経るごとにみんながみんなそうするわけでもなくなってきましたが)実はあまり意味を持たないのではないか、そんな風にも思います。年末年始や盆、あるいは春秋の大型連休に、家族や地元の知人と集まって何かをする、それはその時期に行われるべき必然ではないわけです。実際、旅行をしたりするときは、そういうハイシーズンを避ければお得にゆったり楽しむことができたりするわけです。他人が休んでいるときに働いて、他人が働いているときに休む、というのはある意味で賢い選択でしょう。


 さて、世の中のすべての人達が、ばらばらに休暇を取ったり、盆や正月にやっていたようなことをするようになったりしたら、どうなるでしょうか。社会全体としては、交通機関や小売店への負担がある程度平準化されて、よい影響もありそうに思います。ただ私が感じるのは、風情がない。これにつきます。季節の行事に伴った人々の集団的な移動が観察できなくなるのは、やや面白みに欠けます。「季節らしさ」に翻弄される人々の姿が、そこにはないのです。年間の気象の移り変わりがある限り、「季節らしさ」がなくなることはないでしょうが、それに付随した人々のまとまった動きがなくなってしまう、というのは、なかなか面白くないです。

 この現象は、地方都市の郊外の街並みと似ています。モータリゼーション以後、地方都市の中心市街地はかつての活力を失い、購買力は郊外の国道バイパス沿いの大型小売店の並びや要塞のようなショッピングモールに向くようになりました。また、コンビニエンスストアが全国へ展開し、365日・24時間、全国どこでもだいたい同じ買いものができるようになりました。地方によってスーパーマーケットやホームセンター、電器店の名前が違うとかそういった違いはあるけれども、また店内の品揃えにも違いはあるけれども、地方都市の郊外の街並みは、全国的に似たところがあるように思うのです。

 物流が発達することで、全国どこでも同じようなものを買い求めることができるようになりました。情報網が発達することで、全国各地、ひいては世界各国津々浦々の情報を即時に手に取ることができるようになりました。それらによって受けた恩恵は計り知ることができないくらい大きいと思います。しかし、それらは同時に均質化(とでも言うのでしょうか)をももたらしました。ラジオ・テレビが普及することで言葉の訛りが弱くなったように、その土地々々の個性が鈍くなってきているように思うのです。それが時間にまで波及してしまうと、もっと風情がなくなってしまうな、と、思ったりしています。

 「多様性」を大事にしよう、と昨今の世の中では言われています。反面、様々な方面から、世の中が均質化されつつあります。均質性と多様性、はてこれらが共存されうるのだろうか?と私は思うのですが、世の中の動きはどうやらそのようになっています。言ってみれば「どこをとっても多様である」という状態を作り出したいようなのですが、その多様性は世の中に偏りのあった時代に形作られたものが多くあるわけで、それをフードプロセッサーを使うかのようにごちゃまぜにしてしまって何の意味があるのか?そのあとはどうなるんだ?多様性ってなんだ?と思ったりもします。おっと、話が逸れてしまいました。


 主張したいことがはっきりしていないし、その根拠や類推も足りていませんし、こんな文章で私の思っていることが伝わるのか、という疑問は大いにあります。おそらく、私の主張やその論理には大きな欠陥があると思います。上に書いたようなことで土地の個性は失われていないよ、とか、季節の行事がそんなことで廃れることはないよ、という反論ももちろんありましょう。結局何が言いたいかと言うと、例のあれを発端にして、もしもみんながてんでんばらばらに盆や正月の代わりの休暇を取るようになったら、と思うと、それは風情がないだろう、それだけのことです。


 個々人の持つ個性は実に多様であって、ちょっとした世の中の動きによって失われるようなものではないと思っています。「最近の若者は~」とか言うけれど、その最近の若者にもいろいろいるわけです。

 個性を大事に、季節感を大切に、風情を感じながら、人生を楽しみたいものです。


そこに愛は、あるか?


 アンコントローラブル、てくねちおでした。


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