2020年10月1日木曜日

なまけものはどこへゆくのか

こんにちは。少しずつ輝きを失いつつあるてくねちおです。

早いもので2020年も10月に突入しました。もういくつ寝ると2021年です。いや、さすがに気が早すぎるか。



最近は写真を撮ってなさすぎです。これはトレペで作ったちょっとお上品な光。


幸か不幸か、時間の流れは誰にとっても平等です。限られた時間、毎日やってくる24時間をいかにうまく使って(あるいは使わないで)過ごしていくか、ということが人の能力の推移を左右する意外と大きな因子なのだと、この頃強く実感しています。

2020年は新型コロナウイルスによる肺炎がどうのこうので、人々の過ごし方、動き方の変化が加速される年だったのではないかと思います。特に、家から出ないで仕事をしたり学業に打ち込んだりするような場合が増えたのではないでしょうか。私は家で仕事ができない性です。まして、自分自身の時間の使い方については自由度のきわめて高いご身分にのさばらせていただいている、そんな奴です。結果的に、このおよそ半年間で私は骨抜きにされてしまった、いや、自分から骨抜きになってしまったという感じでしょうか。

なにか事を成そうと思って入ったこの世界ですが、事を成そうと思うのならそれなりの矜持が必要なのであって、志を高いところに置いていなかったら事なんて成せるわけがありません。これはダメだと思いながら取り組んでいることがうまくいくことなんてそうそうあったものではありません。そのへんが私のよくないところなのかな、と思ったりもします。

世の中が変わろうとしているときに、それをいなしたり、ましてその変化を原動力としてうまくやろうと思うのなら、豊富な情報と正確な状況の把握が必須でしょう。中途半端な情報をもって中途半端な状況判断をした結果で動くくらいなら、じっと静観して動かないくらいのほうが、きっとうまくいきます。じっと静観するにも判断力が必要ですから、誰もがそうできるというわけでもないでしょう。

私はと言えば、情報収集はろくにしないくせに、判断を渋って長く悩む傾向にあると思っています。たしかな情報を集めることを重視すれば、形勢判断もきっと、もう少しましにできるだろうに、そう思います。概して人間は、選択肢が多くなると判断が遅くなる傾向にあります。情報を集めすぎないで、あえて選択肢を狭くして判断を早くするというやり方もあるかもしれません(私も無意識にそうしているのかもしれません)が、それは後から見てよい判断だったと言えないような気がします。

「やまない雨はない」という、人を励ますときによく使われるひどく無責任な言葉があります。雨がやむ前にどうしようもなくなってしまう人だっているわけです。強くありたいと思うのなら、いつやむのかわからない雨がやむのを茫然と待っているのでは、雨がやんでも「やんでよかったね」で終わるだけでしょう。雨が降っていてもじっと鍛錬する、むしろその雨を利用してやるくらいの気迫がないと、自分がこうありたい目指す姿には、たとえ雨が降っていなくてもなれないのかもしれません。

成長することは悪いことではないと思います。成長しつづけることもそうです。ただ、誰しも成長しつづけることを望まれ、半ば強制されるような風潮が世の中の一部ではあるような気がして、私はそういう空気が好きではありません。ただ、ある部分で他人よりもいい思いをしたいと思うのなら、そういう空気を受け入れていくしかないのでしょう。許容範囲は人それぞれですから、きっぱりいいとか悪いとか言えないのがもどかしいところです。

世の中が変わろうとするとき、あるいは、世の中でなくともその人が一大転機を迎えるときに、果たしてどう行動しようとするか、どう行動するか、というところにその人の実力が反映されるのではないか、そう思います。この文章では全く説得力がありませんが。


このコロナ禍でハマったことが二つあります。落語鑑賞と将棋観戦です。

落語鑑賞は、以前からちょっと興味はありましたが、なかなか本腰を入れて見聞きすることはありませんでした。知人が大学の落研に入っていたおかげで、学生のやる落語をたまに見ていたくらいです。それが、昨今の風潮で寄席ができなくなったことから、本職の落語家がYouTube配信なんかをやってくれるようになったおかげで、落語を聴くきっかけができました。いざちゃんと聴いてみるとなかなか面白くて。そうは言ってもインターネット配信はインターネット配信です。落語に限った話ではありませんが、あの手の芸能はやっぱり、その場で、その目で、その耳で楽しまないことには熱が感じられないのかな、と思ったりもします。機会を見つけて寄席に行きたくなりました。ありがとう、春風亭一之輔!

将棋観戦は、私のミーハーさを反映した最近の趣味です。以前のブログ記事でも触れたような気がしますが、藤井聡太二冠(王位・棋聖)の人気は強烈ですね。しかしプロの将棋は一局が長くて、半日かかったりもするわけです。いざ中継を見始めたりしてしまった日には……。将棋観戦なんて言いますが、私は将棋が指せませんし、かろうじて画面に表示されている評価値を見ては「へえ、そうなんだ」と一喜一憂しているだけです。まさしく機械の手のひらで踊らされる愚かな人間です。そういう意味で、人間はもう人工知能に遊ばれていると思います。見方を変えれば、賢い人が人工知能を介して愚かな人を操っている、そんな感じですよね。昔から頭が固いので、詰将棋でもやって、せめて頭の体操でもしてやりましょうか。

どちらもインドアなことですが、今はおうちでじっとしていられる人が評価されるのです。もっと私を高く評価していただきたい、そう願う次第です。


まとまりのない記事になりました。それは私の思考が散漫で、論理的でないことに災いするものです。やるべき仕事はそっちのけで、こんな散文を書いていることがその証左です。まあ、人間そんなこともあるだろう、そう思って自らの業を認めようとしています。たまの反省も必要でしょうが、私自身、そんな色は今のところ見えたものではありません。

幸せのかたちは人によってさまざまです。万人に共通な方程式なんてきっとないのでしょうから、自分で落としどころを見つけるほかありません。幸せの相対化も無意味です。ヒトは高度に規格化された工業製品ではないのですから。


不労所得で暮らしたい、てくねちおでした。


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